純潔主義の危険
こうした、美しい恋愛小説を手にとられた時、貴方たちがお考えにならねばならぬことがあります。それは、純潔主義の恋愛は、それ自身では皆さまを陶酔させるほど美しいでしょうが、また多くの危険や過ちを含んでいるということです。
純潔主義の第一の危険は恋人同士が相手を美化しすぎるという点にあります。
皆さまの中にはスタンダールの『恋愛論』をお読みになった方があるかも知れない。あの本には有名な「結晶作用」という言葉が出てまいります。
恋愛心理の結晶作用
スタンダールの結晶作用とは、ザルツブルグ附近のハインの塩坑に投げ込んだ枯枝が二ヵ月後に白い結晶に覆われる作用を恋愛心理に比較したものです。
平たく言えば、恋愛のなかにはたがいに相手を美化しようとする欲望が働くということです。
あなたたちにもきっと記憶があるでしょう。十七、八歳の頃の少女は必ず、心の中で、素晴らしい男性がいつか自分の前に現れてくるのではないかと、心ひそかに考えています。
ちょうど、あの童話の『シンデレラ』にでてくる不幸な少女に素晴らしい王子様が現れたように…。
お笑いになってはいけません。二十歳になった貴方だって、ひょっとすると、同じような素敵な夢をもっていらっしゃるのではありませんか。
その青年は貴方たちの中でいろいろなタイプの男性からイメージを借りています。あるいは、それは数人の映画俳優たちかも知れない。
あるいは、それは『風と共に去りぬ』のバトラーであったり、『チボー家の人々』のジャックであるかも知れません。
いずれにしろ、貴方たちの心の中では、誰にも知られずに、少しずつ、ひそかな理想的男性のイメージが創りあげられています。
第一、それは非常に都合よくできています。娘の心理には矛盾した幾つものものが絡み合っているわけですが、この場合も同じことです。
一方ではある男性が貴方の前に現れることを期待しながら、現実に、男性が貴方の生活や感情の中に入って来るのが何だか、不安な気がするからです。
女性というものは男性に比べると、どんな現状であれ、今の状態のままでありたいという保守的な気持ちが強いように思われます。変化を恐れるのです。
だが、心の中で貴方が創り上げた理想的男性はそういう不安を貴方に起こさせません。それは実在ではなく夢想ですから、ありとあらゆる貴方好みの長所も清潔さももっていますし、現実に現れて貴方の生活を動揺させることもない。
男性とあまり交際したことのない若い女性であればあるほど、この夢想は烈しいように思われます。もちろん、こうした夢をもつことをぼくは決して悪いなどと申しているのではない。むしろ、理想は高く…・言うまでもありません。
だが、危険なのは、こうした夢を現実の恋人に押し付けことです。ある日、貴方の前に一人の男性が現れたとする。
そして彼は貴方と愛し合ったとします。その時、貴方は恋人を美化し始めるのです。今まで堰(せき)とめられていた心の秘密がどっと溢れだします。
今まで描いていた理想的な男性のイメージを彼の上に押し付け、結晶作用を営みはじめる。こういう経験は、冷静な時はバカバカしく思えますが、実際に恋愛を経験なさればよくおわかりになるはずです。
俗にいう「あばたも靨(えくぼ)」という言葉を思い出してください。
今ではもう殆んどありませんが、外国では昔、貴族たちが自分の娘たちを修道院に預けたものでありました。
世間を知らない娘たちが、さらに世間から隔絶した修道院にはいれば、彼女はひそかにやがて自分を愛してくれる男性の姿を心に描いたことでしょう。
そうして修道院を出た時、彼女たちは一番はじめに自分に求愛した青年を、あたかも、その理想的男性と錯覚した、そういう気持ちは今の我々には分からないでもありません。
恋愛というものはある程度の陶酔感情がなければ成立しないでしょう。陶酔するためには多少とも相手を美化しなければなりません。だが美化の度がすぎるとこれは危険なことです。そして純潔主義がもつ過ちは、それがこの美化作用と結びついた場合であります。
先ほど書きましたことをもう一度、思い出してください。ぼくは、青年が、若い女性によって生の刺激を受けることを書きました。
若い女性の持つきよらかさや純潔さは彼にとって純粋な生への思慕にまで導く場合があります。彼は自分の恋人が悪を知らない天使のような娘であるように思いこみます。
同時に娘の方も愛する青年が他の男のように賤(いや)しい欲望なぞ全くない男性であると想像するのです。
つまり、恋愛はたがいに相手の異性に極端なマスクを押しつけるのですが、マスクは往々にして純潔主義と結びつきます。最初のうちにはそれでよろしいでありましょう。
しかし、日がたつにつれ、相手から極端に純粋であると思われることは次第に重荷になりはじめるのです。思ってもごらんなさい。
かりに貴方の恋人が貴方のことを全くきよらかな、全く純粋な娘だと美化して考えているとします。はじめはそれが嬉しいかもしれません。
だが彼から愛されるためには貴方はその彼のイメージまで背伸びをしなければなりません。それが重なるにつれて、貴方は不安になり、次第に疲れ始めることでしょう。
(私は本当は普通の娘だわ。そんなに浄らかに清純な娘じゃない。それなのに、あの方はこの私を本当の私以上に買いかぶっていらっしゃる。もし、やがて、あの方が、本当の私の姿を発見なさったら…・)
彼を幻滅させないためには、彼を失望させないためには、あなたは、無理な背伸びをして自分を彼のイメージに合わせなくてはならない。
男性の側もおなじでありましょう。あなたが愛情の世界で極端な純潔主義を固執する時、彼は貴方に愛されるために、あたかも自分に肉体がないごとくに見せかけなくてはなりません。
純潔主義がスタンダールの結晶作用と結びつく時は、常にこのような歪んだものを愛情の世界にみちびき入れるのです。
皆さんの中には先ほどぼくがあげた純潔恋愛小説の一つである『窄(せま)き門』を読まれた方は多いでしょう。
この小説の取り扱っている悲劇こそ、極端な純潔主義の結末なのです。主人公アリサは恋人ジェロムに押し付けられあまりに美化されたイメージに応じて、あたかも自分が一人の聖女のように振舞わなくてはならなかったのであります。
この苦しい背伸びがやがて彼女をジェロムから引き離して、孤独の裡(うち)に死なせたのであります。そういう観点から、もう一度、この小説を読み返されるこちらを皆さまにおすすめします。
つづく
古くさい純潔への批判